芸術倶楽部アパート

芸術倶楽部アパートのことは、志村章子「芸術倶楽部アパートの青春」(『SHOWA NEWS』No.64〜66)や松本克平『日本新劇史--新劇貧乏物語』(筑摩書房)に詳しい。

このアパートは大正時代の人気劇団芸術座の劇場を転用したものである。劇場は大正4年(1915)に建てられたが、大正7年に劇団主催者の島村抱月がスペイン風邪で倒れ、看板女優の松井須磨子が跡追い自殺して閉鎖された。一時アナーキストの大杉栄が語学の講習会に使ったりしたが、その後アパートに改装された。(写真は芸術座時代のもの。『新劇貧乏物語』より)

芸術倶楽部アパートには、作家・画家の志望者や若い演劇人、そして謄写印刷関係者が多く住んだ。 作家では、宇野浩二、水守亀之助、中野秀人などが若い頃このアパートにいた。大衆作家の納言恭平(奥村五十嵐)は、草間京平の謄写印刷仲間であった。昭和のプロレタリア演劇が盛んな時代には三嶋雅夫などの新劇俳優がいた。

謄写印刷関係者では、草間や奥村のほか、草間の弟佐川弘、千田規之、画家で孔版家の角北斗、元新聞記者で詩人の福富静児などがいた。 福富が抜けた部屋には、評論家の大宅壮一が入った。 『社会問題講座』を執筆中の大宅は、この仕事が出世作となった。

大正12年(1923)、草間京平は作家の有島武郎から150円の資金を得て、このアパートで奥村五十嵐や画家志望の宮城三郎とともに謄写印刷工房「黒船社」を起こした。 最初の仕事は『城所英一詩集』で、150部印刷されたうちの1冊が現在日本グラフィックサービス工業会に保存されている(写真は『城所英一詩集』の扉)。この第1次黒船社は、同年の関東大震災で人が離散して終わったが、黒船社のかかげた技術追究の理念は黒船の名とともに各地で受け継がれた。
「昭和堂月報」の時代
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