●トップページ
●「随筆/研究/ルポ」目次
謄写印刷/孔版印刷の総合サイト


高校3年生に「ガリ版文化」を伝える
―― 群馬県立新田暁高校で特別授業

文/志村章子


「ガリ版を知らない世代にガリ版文化を紹介してください。ガリ版印刷の実演も入れたいですね」
群馬県公立高校の国語科教師である野村耕一郎さんから電話があったのは、昨年の暮れのことである。社会人講師として「特別授業」をしてほしいとの依頼であった。
総合学科高校である同校は、人文、自然科学、情報、福祉、食文化、機械、電子技術など、生徒たちは自らの関心に応じて科目を選択することができる。「ガリ版授業」は、1月21日の選択科目「小論文」の時間(2コマ)で実施されることになった。
「おもしろそう…」と気軽に引き受けてみたものの、1984年生まれの彼ら、彼女らに興味を持ってもらえる授業ができるのだろうかと、いささか不安になってきた。野村先生によれば、「ガリ版を知っている生徒はひとりもおりません」とのことである。「でもプリントゴッコならわかりますよね」と畳み掛けると「ひとり知ってましたね」との答え。1977年発売の戦後史に残る大ヒット家庭用多色印刷器も、今どきの高校生には、過去のものだったのである。
野村先生は、こんな講師に不安をおぼえたにちがいない。私のもとに受講生のプロフィールカードと共にガリ版講師へのメッセージが届いた。「ガリ版という機械があったなんて初めて知りました。」「何事だ! すし屋のガリのことか?」「印刷機の元祖“ガリ版”についてぜひ、お話を聞かせてください」「ガリ版という名前は印象的ですごく興味を持ちました」などと書いている。やっと受講生の姿が見えてきた。彼らはガリ版と新しく出会うのであり、ある種の期待をもっているのだと。

授業内容をあれこれかんがえる。
1. 教室にガリ版を持ちこんで、見たり、ふれたりしながら器械の仕組みを学び、その歴史にも踏みこんでみる。
野村先生からも、「うちの学校にも昔使ったガリ版がありましたよ」という電話をいただいたのである。同校の備品の印刷器は、ホース印(ハヤシの製品)の事務用印刷器(4号)で昭和40年代製造と思われた。この謄写版に加え、私の方から大正時代製造の堀井謄写堂製の小型(2号)の謄写版とプリントゴッコを用意した。
当日、「これは学校の倉庫にあったガリ版だよ」と野村先生が説明すると、生徒たちは「へえ、うちの学校にもあったんだ」とぐんと親しみを増したようである。学校にあるのはコピー機だけ、と思っていたらしい。「20年から30年前までは、この学校だけでなく日本中の学校で使われていたのよ」と私もスムーズに授業に入ることができた。大正期の謄写版と昭和40年代に使用の謄写版の共通点、相違点について質問したりして、形態は基本的に変化せず、シンプル機構のため大正期のものも、現在も使えることなどを明らかにした。
ガリ版の原理を“カラー時代”に生かしてヒット商品となったプリントゴッコは、ガリ版の後継機であることにも興味をもってくれたのである。
2. 生徒といっしょにガリ切りと印刷、プリントゴッコ体験をする。今春、私あてに送られてきた謄写版を使って制作された40枚ほどの年賀状も見せびらかした。
「ガリ版は昔のものなのに、あんなにきれいなものが作れるんだ」と驚いていた。しかし、思いもよらなかったのが、プリントゴッコの魅力が受講生を虜にしてしまったことである。「ピカッ」と光って一瞬で版をつくれること、ローラーで圧を加えることなく多色刷が姿を現すことにである。そのときの教室風景は、1970年代の文具店店頭のプリントゴッコのデモンストレーションで見られた興奮そのものである。新年のあいさつはメールという受講生にプリントゴッコも“新しい印刷器”だったのである。
3. 当日、配布した資料は、次のとおり。
 ・レジュメと略年表
 ・記事コピー(ガリ版百年史、ホリイの倒産)
 ・宮澤賢治の自刻、印刷のガリ版印刷物(コピー)
配布資料が適切だったかどうかには自信がない。授業は、身近なところから関心を引き出し、わかりやすさを心がけた。次のような内容である。

 「ガリ版」のはなし
 =日本の近現代化をささえた国民印刷器=
(1) ガリ版(本名・謄写版)を紹介します。
(2) 謄写版の誕生 ―― 開発者・堀井新治郎父子のこと
(3) 謄写版の普及 ―― 全国へ、そして海を越えて
(4) 学校とガリ版文化 ―― 宮澤賢治先生の場合
(5) 群馬県とガリ版文化 ―― もっとも早くから利用した人々

(1)は展示物(印刷器と年賀状など)を囲んでの授業。(5)は、近代でもっとも早い時期の社会問題である足尾鉱毒事件の被害地農民たち(栃木・群馬県には被害の激甚地がある)のガリ版利用や、群馬の謄写プリント店など、である。
間に短い休憩をはさんだ2時間は、またたく間に過ぎ去り、チャイムが鳴った。私は、彼らに「ガリ版文化」を少々でも伝えることができただろうかと考えつつ、赤城下ろしの冷たい風のなかを帰路についた。

1月末、受講生からの「お礼の手紙」が送られてきて、「特別授業の翌週の授業で書いたものです」との野村先生のコメントが同封されていた。受講生たちの手紙は、謄写版やプリントゴッコを実際に使って印刷物をつくった感想、近現代史と日本人とガリ版の関わり、IT時代のメディアの考え方等々にもふれるものであった。
「印象に残った授業でした。やはりガリ版とプリントゴッコを使ったことです」
「日本で(謄写版が)長く使われたのには、それなりの理由があると感心した」
「今まで歴史に興味を持てなかったが、ガリ版の歴史を知り、体験することで仕組みを知り、歴史の楽しさを覚えました」
「プリントゴッコを考えついた人はすごいけど、ガリ版を考えた人はもっとすごいと思いました」
「楽しい授業と共にガリ版とは何か。ガリ版文化などを自分の中に吸収できた」
「メールもうれしいけど、送り手の字の味、雰囲気を味わうことはできず、どことなく淋しいような気がする。人の手で原稿をつくって刷るガリ版や手紙は読み手にも気持ちが伝わりやすいのだなと授業のあと考えていました」
などの感想を得て、やっと私を安心させてくれると共にうれしさがジワリとやってきた。

ガリ版を知らない世代に「ガリ版文化」をつたえていくことに意義を感じる人々は少なくないだろう。つたない体験を記したのは、私自身もそう考えているからである。
(03.3.4)
●SHOWA HP