●トップページ
●随筆/研究/ルポ/お便り
●板祐生の世界
●祐生研究
謄写印刷/孔版印刷の総合サイト


浅之助と陸奥乃小芥子
稲田セツ子 「祐生出会いの館」


福島県土湯のこけし職人佐久間浅之助の作品が、こけし研究家・コレクターの山本吉美氏により「祐生出会いの館」で発見されたニュースは、昨年のこけし界をにぎわせました。また、同館の所蔵する謄写印刷冊子『陸奥乃小芥子』(木村弦三編・板祐生作、昭和10年発行)も、貴重資料として脚光を浴びました。以下は、“11本目の浅之助”発見の経緯です。名古屋こけし会発行『木でこ』174号(3月11日)から転載しました。
なお、浅之助作品を含む祐生のこけしコレクション全品が、5月21日まで「祐生こけしコレクション」展として公開展示中です。(2001.5.5)


祐生コレクションから発見された11本目の浅之助
山本吉美さんのお名前を記憶し始めたのは、かなり前のことになります。祐生絵暦を注文してくださる大口注文者の中に、毎年お名前があり、ありがたいお客様ということで自然に記憶に残るようになりました。
何度かお便りをいただき、その度に“こけし便り”や“こけしカレンダー”をお送りくださるようになり、遠く離れていても祐生の蒐めた郷土玩具に関心を抱いて下さるお方があることを嬉しく感じたことでした。
やがて、全国の著名な版画家の賀状交換会であった「榛の会」の20年に及ぶ作品を一挙に公開展示した「特別展」の記事をお送りした折、「必ず来館したい」というお返事を頂戴しました。

しばらく経った初夏の頃と記憶していますが、奥様同伴でお見えになり、「出会いの館」に隣接する「緑水園」で一泊なさった時のことです。ご所望により、コレクションのアルバムをお見せして、ご希望のこけしの実物を収蔵庫より取り出してお見せした中の一本が「浅之助」だったのです。
山本さんは、何度も何度もひっくり返し、遠くにやったり近づけたりして真剣な眼差しで撮影なさいました。
「若しかして、これは大変なものかも…」、と大きな目をぎらぎらさせておっしゃいました。今でもはっきりと記憶に残っています。
私は、正直申しまして“こけし”は殊に得意ではありません。産地と工人の名前が一致しなくても頓着しないという不勉強さです。
「浅之助」という名前も初めてでした。ですから「11本目の浅之助」と報告を戴いた時には耳を疑い、興奮のあまり口もきけませんでした。私どもの秘蔵品のポスターにも勝る価値のあるものであろうとは…。

その後、今度は三重県の川本慧氏と岐阜県の中島芳美氏の3人でお見えになり、またもや祐生の“こけしコレクション”の撮影が2日がかりで行われました。この時は既に皆さま『陸奥乃小芥子』の全容を掴んでいらっしゃいましたが、木村弦三氏が本の出来上がりに殊の外喜ばれたお手紙もお見せ致しました。そして、全て現物が手元に残っていたことを証明して頂いたことは、決して偶然と言ってすまされない気がいたします。これだけの熱意と情熱、そして度重なる来館があったからこそ、祐生のこけしが世に出るきっかけとなったのです。

この度、橋本正明様の記述により、いろいろな勉強をさせて頂きました。心よりお礼を申し上げます。東京展でお目にかかれたこと、ひときわ可愛いこけしの名刺が印象深かったこと。東京の方々の確かな目と価値観によって東京展の評判は上々で、このような機会を与えて頂いたことに感謝し、安堵と満足の中に東京をあとにしました。
そして、何より『陸奥乃小芥子』とその孔版画を携えていくことが出来たことの意義は大きく、私の生涯に一つのエポックを築いたとまで思っています。
祐生がこよなく愛してやまなかったこけしは、全国の愛玩人(玩具を愛する人――祐生の好きなことば)のお目にとまる日を静かに待ち続けているのです。
私は今後、皆さまのご期待に添うべく、祐生こけしコレクションの入手経路や年代を調査研究し、お知らせすることが私の使命と考えております。
最後に、「浅之助」と『陸奥乃小芥子』の発見と写真撮影に努力され、こけし界にとっても重要な足跡を残された山本吉美氏に、心より感謝を申し上げたいと思います。
●SHOWA HP