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板祐生学入門
[10] 謄写版開眼
文/志村章子

祐生が自分専用の謄写版を持ったのは、教師になって17年後です。それまでは本校や役場にでかけて刷るか、休みの日に本校から借りるかです。当時は勤務先の分教場になかったようです。
いよいよ謄写版を入手したのは、大正13年。納札の趣味の会(東京肉筆納札交換会)の機関誌制作を依頼されたときです。購入したのでなく、同会の代表者の一人(田中政秋氏)から謄写版とヤスリを寄贈されています。私家本「富士のや草紙」シリーズの制作が始まるのが翌年(大正14年)、当時の出版法では、学術雑誌の分野になります。

祐生が、生涯に制作した手作りの冊子は、代表作「富士のや草紙」を含め100冊をゆうに越えます。当初、祐生は謄写印刷について、こう書いています。
「謄写版刷りの雑誌ほど労多く効少ないものはない。刷るのも製本も一手でやるということは、実際を知らない人々には想像もつくまいと思われる。それで出来上がりはこんなみすぼらしいものになる」
しかし、いくら愚痴をこぼそうと、小学校教師にとって手の届く表現とコミュニケーションの道具は謄写版だけでした。

それから4年。「富士のや草紙」(15)には、こう記しています。
「謄写版の版画には、木版にも石版にも見られぬ別の味があるのを発見した。もしこの味を適当に利用していったならば、謄写版の版画もまた芸術の領域に入り得るものと思われる。この仕事で精巧なことを考えるというのは半可通を免れない。望むところは清純にして一脈の気品を持つことである。謄写版はプロの印刷器としてこのうえなく重宝なものである。これを忘れて、印刷は木版や石版に限るとなげてしまうのは少々せっかちである」
4年前の愚痴がまるで嘘のよう。謄写版ローラーは、まるで祐生の手の延長のようにしっくりなじんできたのでしょう。ここにきて、祐生にとっての謄写版は、“小学校教師の実用印刷器”から、プロ(孔版画家)の印刷器となったと考えたい。
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●SHOWA HP