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板祐生学入門
[13] 終わりに
文/志村章子

特別な師もなく、山村にあって祐生の孔版画は晩年にして開花したというのが定説のようです。たしかに、そう思えます。逆説的にいえば、特定の先生がいなくてよかったとも思います。
しかし、祐生がセンスを磨き、技法を研究し、わがものにしていく過程にあって師はむしろ多かったとも思えるのです。作家の血の出るような日々の研鑚はもちろんですけど。よい作品とは、その作家にしかない“らしさ”を極めることと、センスではないでしょうか。そう考えると、まず、たくさんの郷土玩具そのものは“反面教師”を含め、師であったのではないか。絵画、美術品などに一家言持つ雅友との交わり、地元の日本画家、持田稲香や吉村撫骨などとの交際も重要です。

祐生が晩年に達したのが、毛筆も鉄筆も不要とし、小刀で刻む切り抜き孔版画です。それは謄写原紙を二枚張り合わせた精巧な型紙です。
ろう原紙で手作りした型紙と、もっともシンプルな印刷機で因州和紙に直刷り。それが山陰の山村校の先生でもあった孔版画家が選択した素材と道具でした。全国の業者が使用していたのは土佐か美濃和紙でしたが、明治37、8年に鳥取市に開業した岡田謄写堂(祐生も顧客でした)の原紙元紙は因州和紙だったと数日前に教えていただいたばかりです。
祐生の作品は、山陰の風土から生まれたという思いを深くしています。(上京することもなく、特定の師もなかったのは、ほんとうによかった。淡々としたこだわりのなさが、見るものにおだやかな空気を送ってくれます)

板祐生は、謄写印刷発達史上、孔版画家の先達のひとりです。それは、戦後の5年間ほどの間に海外を含むさまざまな場で賞を得たことでわかるように、社会から評価されることになります。
現在も全国に散在する孔版画の指導者、学習者も健在ですが、切り抜き孔版画家板祐生は異端の存在であり続けたと考えられます。謄写業界が過去になって久しい現在、祐生の名は一時消えかかったこともありましたが、近年、「出会いの館」が開設されたこと、本日のシンポ開催と、再生、再浮上の可能性大と期待しています。
近代日本人と共にあったガリ版は、ガリ版文化といえるほど、広く深く多くの場面で多様な仕事をのこしています。まだまだ全国各地に“祐生”のような存在を発見できるのではないでしょうか。特に地方発の熱意ある歴史の掘り起こし、人物紹介は重要と考えています。鳥取市に存在した岡田謄写堂などの業者や技術家の歴史も残していきたいものです。

☆いいわけ/祐生への関心、資料しらべも浅く、本日の内容も独断と偏見に満ちているかもしれません。これから学ぶことは多く、特に地元の皆さまにさらなるご指導をいただきたいと、お願いしておきます。
(「板祐生学入門」完)

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