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板祐生 ―― 人とコレクション
稲田セツ子/「祐生出会いの館」調査研究員


[8] 歌舞伎大巡業の思い出

幸四郎から直接楽屋でもらった紅隈
「昭和丁卯葉月、東西歌舞伎の山陰巡業は、地方劇界未曽有の盛時に有り」という口上で始まる『紅隈歓語』(昭和2年刊)は、祐生畢生の大作と呼ばれる「富士の屋草紙」全39巻の中の一巻です。

これは昭和2年8月、米子市の朝日座で東は松本幸四郎、西は実川延若をはじめとする東西大合同の一座の巡業がありました。「寄ると触るとこの噂でもちきり、山村の僻地まで賑った、入場料一等席六圓はこの節一大驚異にあり」と。
「当日、近所にて聞けば、正午開演に早朝より詰め掛け、押し寄せる群衆を追っ払うのに木戸の若衆の声も枯れてしまった」ともあります。「中も外も署さと騒々しさに息詰まるようで見動きの取れない鮨詰め……」

幸運にも祐生は、三浦おいろという松竹合名会社の作家と親しく、
右より紅隈を団扇にしたものと、東西大合同歌舞伎の時、場内で希望者に配られた団扇
この方を介して幸四郎丈に楽屋で面会を果たしました。丈は、松王丸の扮装中で、隈取りの実際を実見し、更に松王丸の隈に自署を得た幾重もの喜びにひたっています。
「お忙しき中にもなにかと話かけて下さり、寸分の隙間なき悠々として迫らざる態度に充分名優としての真価を見たり――」と書いています。

この感激の薄れざる中にと、8月からかかったこの草紙が霜月にやっと出来上がり、松王丸一枚に十日、ルーラー廻すこと一万返、刷損じの紙300余枚――。
しかし、「この草紙を十余名の名優の方に見ていたたけることになりました。嬉しいことです。百日の説教よりも、一夕の芝居によりて真に厳粛なる涙を払い、真の感激に浸り得る事もある」と、その嬉しさを草紙の中で語っています。

早蕨や 一つ根なから 左右  七代目幸四郎
巣立ちして 松にさえつる 雀哉  扇雀

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